旧伊達町町長ネット室に次のような文章がありましたので紹介します。
伊達文庫として平成6年に発行された『寛延二年の一揆と義民斎藤彦内』(吉田勇著書)という本があります。「義民」という言葉は、よく耳にする言葉で、特に最近はテレビなどで取り上げられることも多くなりました。その中には、実在はしなかったけれども、実際の義民をモデルにして脚色され、長く人々の心に残されてきた
「義民佐倉惣五郎」のような例もあります。わが故郷伊達町に実在した斎藤彦内は、この本によると、まさに「義民」と呼ぶにふさわしい方でありました。
今から約260年前(1749年)の寛延二年、信達二郡は正月から異常気象となり、六月から寒冷な気候が続き、米作は近年にない大不作となった。この時代は貢租の中心は米であり、領主は全ての田畑を生産高の石高で示し、それに税率をかけて貢租を算出し、それを村々に割り当てて取り立てた。従って、米作の豊作・凶作が領主の財源に大きな影響を与えたのである。この時の桑折代官は神山三郎左衛門であり、彼は、不作による農民の訴えに耳を貸さず、強制的に貢租を確保することに熱心であった。
そこで、不作で貢租の減額を訴える農民と、貢租の確保を目指す神山代官は対立する。農民は行動を開始した。12月3日、大勢の農民が宮代山王社に集結した。長倉村斎藤彦内が中央に座り、
伊達崎村蓬田半左衛門と鎌田村猪狩源七が補佐し、「生命を賭けて戦い、年貢を半分に減らし、延納を認めさせること」を誓い合った(天狗廻状騒動)。12月11日、68ヵ村の農民16000人が三手に分かれて集合し、桑折代官所を取り囲んだ。代官との話し合いの結果、ある程度要望は認められたが、一揆の首謀者は断罪されることになった。源七、半左衛門は桑折牢屋敷で死罪となり、彦内だけは村境の産ヶ沢で獄門となった。三人とも家族に累が及ぶことはなかった。
こうして、斎藤彦内はこの世から姿を消しましたが、その行動は長く人々の心に焼き付き、子孫へと代々語り継がれ、今日ではその顕彰の気持ちが益々高まっております。
ふるさとの歴史を代表する義民斎藤彦内の義挙を称えると共に、私たちの責任で後世に伝えていきたいと思います。 旧伊達町長 冨田 健一郎