こんなにスカッとした気分を味わうのは
いつのことだったろう。
大飯原発差止判決。
「司法は生きていた」の文字。
私は、「福島が活かされた」と思った。
福島は、「犠牲」であり、「棄民」にされていた。
しかし、この判決は「福島」がなければ出なかった。
判決文を声を出して読みたい。
個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、
各人の人格に本質的なものであって、
その総体が人格権であるということができる。
人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、
また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、
我が国の法制下においてはこれを超える価値を
他に見出すことはできない。
したがって、この人格権とりわけ生命を
守り生活を維持するという
人格権の根幹部分に対する具体的侵害の
おそれがあるときは、
人格権そのものに基づいて侵害行為の差止めを
請求できることになる。
人格権は各個人に由来するものであるが、
その侵害形態が多数人の人格権を同時に侵害する性質を
有するとき、
その差止めの要請が強く働くのは理の当然である。
新しい技術が潜在的に有する危険性を許さないとすれば
社会の発展はなくなるから、
新しい技術の有する危険性の性質やもたらす
被害の大きさが明確でない場合には、
その技術の実施の差止めの可否を裁判所において
判断することは困難を極める。
しかし、技術の危険性の性質やそのもたらす
被害の大きさが判明している場合には、
技術の実施に当たっては危険の性質と
被害の大きさに応じた安全性が求められることになるから、
この安全性が保持されているかの判断をすればよいだけであり、
危険性を一定程度容認しないと社会の発展が
妨げられるのではないかといった
葛藤が生じることはない。原子力発電技術の
危険性の本質及びそのもたらす被害の大きさは
福島原発事故を通じて十分に明らかになったといえる。
本件訴訟においては、本件原発において、
かような事態を招く具体的危険性が
万が一でもあるのかが判断の対象とされるべきであり、
福島原発事故の後において、
この判断を避けることは裁判所に課された
最も重要な責務を放棄するに等しいものと考えられる。
日本列島は太平洋プレート、オホーツクプレート、
ユーラシアプレート及びフィリピンプレートの
4つのプレートの境目に位置しており、
全世界の地震の1割が狭い我が国の国土で発生する。
この地震大国日本において、
基準地震動を超える地震が大飯原発に到来しないというのは
根拠のない楽観的見通しにしかすぎない上、
基準地震動に満たない地震によっても
冷却機能喪失による重大な事故が生じ得るというのであれば、
そこでの危険は、万が一の危険という領域を
はるかに超える現実的で切迫した危険と評価できる。
このような施設のあり方は原子力発電所が
有する前記の本質的な危険性について
あまりにも楽観的といわざるを得ない。
究めつきはこれ。
被告は本件原発の稼動が電力供給の安定性、
コストの低減につながると主張するが、
当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と
電気代の高い低いの問題等とを
並べて論じるような議論に加わったり、
その議論の当否を判断すること自体、
法的には許されないことであると考えている。
このコストの問題に関連して国富の流出や
喪失の議論があるが、
たとえ本件原発の運転停止によって
多額の貿易赤字が出るとしても、
これを国富の流出や喪失というべきではなく、
豊かな国土とそこに国民が根を下ろして
生活していることが国富であり、
これを取り戻すことができなくなることが
国富の喪失であると当裁判所は考えている。
どうだ、安倍首相、東電。これに、反論してみてくれ。