出版社の依頼で原稿を書く。
安倍首相ー「先の世代に謝罪を背負わせてはならない」
この言葉が赦せないのだ。
原稿を書きながらずっと考えた。
そして、この言葉が出てきた。
「共歩」
辞書にはない。
でもあえて表題を次のようにした。
「核被害地」で生きる-未来世代との「共歩」を求めて
原稿の抜粋です。
まだ、自分でも熟されていないのですが
ときの首相が背負わせてはならないということは
自分も背負うことをしないことを世界に表明したことに他ならない。
全く、恥ずかしい。
あなたには、首相どころか
大人の資格もない。
3.「負わされる責任」と「背負わされる覚悟」
原発事故の責任は、私たちが負いきれるものではないし、かといって誰も責任を負わず問われない社会は「堕落」である。その責任を果たすべきは原発事業を進めてきた国と電力会社だ。そうでなければこの社会は、堕落し続け成り立たない。
原発立地地域の人たちは、「原発補助金」を代償に「ふるさと、生業」を失う責めを負わされている。故郷を追われ、賠償を巡って、福島県民からも陰口を叩かれ、いまだ自らの未来を描くこともできないでいる。
私たちは事故が起きて初めて、事故に直面して初めて、被害を蒙りつつ、「引き受けるべき責め」というものを自覚する。原発立地地域の多くの人々にとって、事故後のことを「予知」することは不可能であり、当事者になって初めてその辛酸をなめさせられる。今後も日本が原発に依存するのであれば、国、県、市町村、事業者、裁判所、そして「大人たち」にその責めを負う覚悟があるのかと問いたい。
全村避難を余儀なくされた飯館村の女子高校生が、村民集会で「私が子どもを産んでその子供に何かあったらも保障してくるんですか」と東電の副社長に迫った。答えはなかった。原発事故の起きた8月に私は飯館村の中学生とドイツに行った。彼らは原発の是非について一切語ろうとしなかった。現地のフライブルクで原発反対のデモがあった。このデモへの参加を巡って、飯館村教育委員会からは、色よい返事がなかった。自由参加にした。引率の先生方は参加しなかった。でも、子どもたちは、こもごもの出で立ちでパレードに参加した。彼らは、「背負わされる覚悟」を引き受けようとしたのだと思う。
原発事故で被害者にさせられた福島の私たちの「引き受けるべき責任」とは何か。原発事故後に日本に生きる大人たちの責任とは何か。自明である。原発事故の法的責任を明確にさせ、被害の救済をきちんとさせること、そして次の世代に私たちの責任を転嫁せず、原発の再稼働を許さず原発ゼロにすること。それをなさずして、「背負わされる覚悟」を子どもたちに強いることは私たち自身の「堕落」でしかない。